信仰は燃えているか

「信仰は燃えているか」 2022/8/14 聖霊降臨後第10主日礼拝メッセージ

ルカの福音書12章49~56節

「わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです」とイエス様はおっしゃいました(49)。平和に収まっている所にあえて分裂を呼び起こすというのです。なぜイエス様はこんなショックなことを言われたのでしょうか?

50節でイエス様は「わたしには受けるべきバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。」とおっしゃいました。この場合のバプテスマとは、イエス様が人々の罪を背負って死なれる「十字架刑」を指しています。十字架刑は肉体的にも当時最も苦しく、残酷な刑罰でしたが、イエス様の場合、「父なる神様との断絶」というさらなる大きな苦痛がありました。十字架上のイエス様は「人類のすべての罪を犯した罪びと」として、神様との絆を切り離され、罪びとに対する神様の強い怒りに直面しておられたのです。これはイエス様にとって最大の苦痛でした。

イエス様を信じて洗礼を受けた人は聖霊を受けます。これが「火によるバプテスマ」です。実は私たちの「火によるバプテスマ」とイエス様のバプテスマ(十字架の苦しみ)とは深くつながっています。聖霊は信仰者の霊を支配し、正しく聖い生き方をするよう導きます。しかし人は洗礼を受けた後も肉の欲求が残っており、罪深い生活を続けさせようとします。ここに葛藤が生まれます。自分の中で分裂が起こるのです。つまりイエス様が「わたしは分裂を起こす」と言われたのは、家族や他人との関係以前に、自分自身の中で起こる分裂です。肉の欲求は日々新しく起こってきますので、その欲求に妥協するのではなく、キリストを信じる信仰の火で日々古い自分を焼き尽くしていく必要が、わたしたちにはあります。たとえ愛する家族が肉の欲求、罪の支配を受け入れることを求めてきたとしても、イエス様に従う必要があるのです。

しかし忘れてはならないのは、イエスさまは「平和の君」だということです。イエス様の十字架によって敵意は廃棄されました(エペソ2:15)。だから分裂は一時のことです。私たちがたどり着くのは一致であり、平和なのです。だから勇気をもって、キリストの十字架にとどまりましょう。「私の信仰は燃えているか。」それを自覚する新たな一週間でありたいと思います。

(井上 靖紹 長老)