キリストの名において

「キリストの名において」 2021/9/26 聖霊降臨後第18主日礼拝メッセージ

マルコ9:38-50

イエス様の弟子のヨハネが、イエス様の名を唱えて悪霊を追い出している人を見ましたが、「自分たちの仲間ではない」という理由でやめさせました(9:38)。ついさっきイエス様が幼子を抱きながら「偉い人とはどういう人か」について教えてくださったばかりなのに、弟子たちの耳には入っていなかったようです。

ヨハネが彼らを止めた理由は、その人たちが悪霊を追い出せていたことへの「ねたみ」と、この人たちが悪霊を追い出せたのは神様ご自身の力による、ということを忘れていたからでした。神様のなさることを邪魔するのは大きな罪です。

9:50でイエス様は「自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。」と言われました。互いに和合する(平和に暮らす)ことは、人間の力では出来ません。神様のわざです。その方法は「自分のうちに塩けを保つ」ことです。どういう意味でしょうか?49節に「すべては、火によって、塩けをつけられるのです。」と書かれてあります。「火」とはゲヘナ(地獄)の火です。イエス様が十字架の上で、わたしたちの身代わりに受けてくださった地獄の火。この火が人に塩けを与えます。だれでも、自分が神様のみわざを妨害したり、目や口で人を傷つけてしまうような者であることを認め、「そんなわたしの代わりにイエス様は死んで、よみがえってくださった」と信じてイエス様の名を呼ぶ者、それが心の中に塩けを持つ人です。御言葉と聖餐によっていつも罪を悔い改め、イエス様の死と復活をいつも心に刻む人が、自分の中に塩けを保つ人です。その人は、人々と和合し、平和に暮らすことが出来ます。

今年の姫路教会のあいことばは詩篇133:1「見よ。兄弟たちが一つになって(和合して)共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。」です。コロナ禍で「一緒にいることは難しい」と感じます。しかし、いつも自分の罪に心を痛めながらイエス様の十字架を見上げる者同士は、心に塩けを持ち続ける者たちであり、からだは離れていても一つになることが出来ます。そこに大きなしあわせと楽しさがあるのです。こうして兄弟姉妹が和合してイエス様の御名によって祈る時、イエス様のお名前はどんどん広がっていくことでしょう。イエス様ご自身の力によって。

(永田 令 牧師)