祈りの経済学

「祈りの経済学」 2021/7/25 聖霊降臨後第9主日

ヨハネ6:1-21

今日は、イエス様が5つのパンと2匹の魚で5000人以上の人を満腹にした、という出来事を読みました。ヨハネ以外の福音書では、弟子たちの方がイエス様に「群衆を解散させて自分で食べ物を用意させましょう」と提案していますが、ヨハネの福音書ではイエス様の方が弟子のピリポに「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」と尋ねておられます。しかも「イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった」とまで書かれています(6節)。人をためすなんて、イエス様はイケズな方なのでしょうか?

ちなみに「ためす」と「誘惑する」は、ギリシャ語では同じペイラゾーという単語です。「悪に誘う」のが「誘惑」。「善に誘う」のが「ためす」です。つまり、イエス様が人をためす時は、常に良い方向に導くためであり、より信仰を強め、より大きな喜びを与えるためです。問題がすぐに解決せず、神様から「さあ、どうする?」と問われているような時がわたしたちにもあります。でも、それによってわたしたちは真剣に、叫ぶように、祈る者となります。弟子たちが口々にイエス様に本音をぶつけたように。それで良いのです。このように本音をイエス様にぶつけることこそ、真の祈りです。そこから思わぬ道が開かれていきます。

このパンの出来事の直後、イエス様は湖の上を歩かれ、恐れる弟子たちに「わたしだ。恐れることはない。」と言われました(20節)。この「わたしだ(エゴー・エイミー=わたしは在る)」という言葉は、神様がご自分を指す時に使われる表現です。イエス様はただの預言者ではなく、天地を造られた神様ご自身です。そのようなお方が「いのちのパン」となって地上に来られ、十字架でわたしたちのために死んでよみがえられました。イエス様を信じて洗礼を受けた者には聖霊様が与えられ、イエス様ご自身がその人の中に住まわれます。そしてその人をイエス様の愛で満たしてくださいます。わたしたち自身の優しさは、きょうの5つのパンのように微々たるものですが、イエス様はそれを用いて、他の人々のために大きな働きをさせてくださいます。5つのパンが5000人以上を満腹にし、さらに余りが出たように。そのことを信じてわたしたちも本音で祈っていきましょう。これこそ「祈りの経済学」なのです。

(永田 令 牧師)