ちむぐりさの心

「ちむぐりさの心」 2021/7/18 聖霊降臨後第8主日礼拝メッセージ

マルコ6:30-34,53-56

イエス様の12人の弟子たちが、宣教の旅から帰って来ました。マルコ6:12~13節を見ると、「(彼らは)悔い改めを説き広め、 悪霊を多く追い出し、大ぜいの病人に油を塗っていやした」とありますから、この旅は大きな成果を収めたようです。イエス様も満足され、「さあ、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」と言われました(31節)。「寂しい所へ行って」というのは、「静かに神様に祈り、御言葉を聞きなさい」という意味です。わたしたち人間は神様に造られましたので、神様との交わりがなくては、どんなに熟睡や行楽をしても、心の空洞を埋めることが出来ないのです(パスカル)。

ところが弟子たちが休むために舟で出かけると、先回りした群衆が待っていました。弟子たちは不機嫌になったことでしょう。しかしイエス様は「彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始め」ました(34節)。この「深くあわれみ」という言葉は「内臓」を意味する「スプランクノン」というギリシャ語から派生した言葉で、「内臓を引っ掻き回されるような苦しみ」を表す言葉です。この言葉に一番近いのは、沖縄の「ちむぐりさ」という言葉でしょう。この言葉は「肝(ちむ)苦(ぐ)りさ」と書き、自分の内臓がちぎれんばかりの苦しみを意味します。しかも自分のこと以上に、他人の苦しみを見て「あなたが苦しいと、私も苦しい」という意味を持っているそうです。これまで多くの苦しみを経験した沖縄ならではの言葉、と言われています。

イエス様も、多くの苦しみを通られました。全知全能の神の身分を捨てて人となられ、さげすまれ、苦しみの果てに十字架で死なれました。それは、神様や他人よりもまず自分を第一にするわたしたちすべての人間の罪を背負って、身代わりの罰を受けるためでした。イエス様を信じて洗礼を受けた人は罪がゆるされ、いやされ、聖霊様が与えられます。それによってイエス様の心、すなわち本当の「ちむぐりさの心」が与えられます。相変わらず自分中心のわたしたちですが、そのような弱ささえも用いて、イエス様は愛のわざを行ってくださいます。そのことを信じて、自分のなすべき務めを果たして参りましょう。

(永田 令 牧師)