真実の言葉

「真実の言葉」 2020/9/27 主日礼拝メッセージ

マタイ21:23-32

きょうの福音書に「2人の息子」の話が出てきます。忙しいぶどうの収穫期、父親は2人の息子に「きょう、ぶどう園に行って働いてくれ」と頼みます。兄は「行きます。お父さん」と言いましたが、行きませんでした。弟は「行きたくありません」と言いましたが、あとから悪かったと思ってぶどう園に行きました。結果的に父親の願った通りにしたのは弟の方でした。

このたとえの父親は、人々に「悔い改め」を迫ったバプテスマのヨハネ、兄は当時一番信仰的に正しく、立派だと思われていた祭司長や長老たち、そして弟は当時みんなから罪びと呼ばわりされ、神様から最も遠い存在と思われていた取税人や遊女たちを指します。取税人や遊女たちはヨハネの言葉を聞いて悔い改め、ヨハネから洗礼を受けましたが、祭司長や長老たちはヨハネの言葉を聞いて肯定しましたが洗礼は受けませんでした。「行きます、お父さん」と言って行かなかった兄と同じです。彼らが洗礼を受けなかった理由は、自分たちは既に正しい者だから、今さら悔い改める必要がないと思ったからです。ところが彼らの自信は、イエス様の「ヨハネの洗礼は、天からか?人からか?」という質問によって、もろくも打ち砕かれます。群衆の目が怖くて彼らは本心を言えず、「わかりません」というあいまいな答えをしました。彼らは神様を見ていたのではなく、人を見て、人を恐れていたのです。そういう人の言葉はあいまいになります。

しかしわたしたちも同じではないでしょうか?本当はこう言いたいのに、本当はこう言うべきなのに、言えない。真実の言葉が出て来ない。人の目を恐れて、あいまいな言葉でごまかしてしまう。それが私たち人間です。でも、そんなわたしたちのために、神様は、一人子イエス様を地上に送り、わたしたちの身代わりに十字架につけて罰してくださいました。このイエス様の死と復活を「わたしのためだった」と認めて洗礼を受ける時、その人は救われ、神の国に入ります。こうして神の国の国民となった者は、その行いや言葉も次第に変えられて行き、人を生かす「真実の言葉」を語る者になって行きます。自分自身の力ではなく、神様ご自身の力で。

(永田令 牧師)