隠された宝

「隠された宝」 2020/7/26 礼拝メッセージ

マタイ13:44-52

今日の1つ目のたとえは「畑に隠された宝」の話です。昔ユダヤでは、土の中に大事なものを埋めて戦争に行く人が多かったため、その人が戦死すると隠し場所がわからず、長い年月の後に掘り起こされる、ということがよくあったそうです。畑の中の宝とは「天の御国」のことです(44節)。天の御国とは、死んでから行く天国のことだけではなく、「神様が共におられる状態」のことです。神様が共におられるならば、どんな状況であってもそこは天の御国です。神様が共におられることの価値を知った者は、「持ち物を全部失ってもいい」とさえ思えるのです。

2つ目のたとえに出てくる「良い真珠」は、先ほどの畑の宝のように土に埋まっていたわけではなく、人々の目には触れていました。しかし人々にはその価値がわかりませんでした。ただずっと良い真珠を捜していた商人にだけはその価値がわかり、持ち物を全部売り払って手に入れました。神様が共におられることの大切さは、本当に価値ある人生を捜し求めている人にはわかるのです。

マルチンルターは「聖書の中に隠された宝、それはイエスキリストである」と述べています。イエスキリストという宝を受け取る時、わたしたちは自分が喜びに満たされるだけでなく、神様と人々のためにすべてを犠牲にしても良い、と思えるようになっていきます。その人の中に隠されたイエスキリストの力です。

しかしわたしたち人間は皆、神様よりも、自分を第一にしてしまう者です。だから最後は燃える炉の中に投げ入れられるべき存在でした。そんなわたしたちを、火の中ではなく「天の御国」、すなわち永遠に神様と共に生きる世界へと招き入れるために、神様は愛する一人子イエスキリストを、わたしたちの身代わりに十字架につけてくださいました。それほどまでわたしたちのことを「高価で尊い宝だ」と言ってくださったのです。

「いのちが一番大切だと/思っていたころ/生きるのが苦しかった
いのちより大切なものが/あると知った日/生きているのが嬉しかった」
(星野富弘「いのちよりたいせつなもの」より)

(永田 令牧師)