拓(ひら)け心を。土のごと

「拓(ひら)け心を。土のごと」 2020/7/12 礼拝メッセージ

マタイ13:1-9、18-23

今日は「種蒔き」のたとえです。イエスさまは人々を待っておられましたが、集まった人々の多くはイエスさまが待っておられた人々とは少し違い、神の言葉を「悟ろうとしない」人たちでした。悟る人というのは話の一番大事なことを感じて理解します。それは御言葉が自分のことについて語られているものとして受け入れ、自分の問題として聞くからです。悟らない人というのは、何が肝心な所かわかりません。語られる言葉を自分の問題として受け入れないからです。自分の中に入らない御言葉は、きょうのたとえの1つ目の種のように、道ばたに置き放しにするようなもので、やがて失われてしまいます。

もう少し御言葉に積極的な人々もいました。2つ目の、岩地のような心の人々です。「御言葉を聞くと、すぐに喜んで受け入れる」「しかし、自分のうちに根がないため・・みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます」(マタイ13:20-21)。私もかつてこのような者でした。しかし心から悔い改めて祈った時、神様ご自身が岩を取り除かれ、地を耕して下さったのです。

3つ目の種はいばらの中に落ちました。「いばらの中に蒔かれるとは、御言葉を聞くが、この世の心遣いと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです」(13:22)。私自身、回心した後も、心には絶えず誘惑が起こり、失敗が続きました。しかしイザヤ55:13にあるように、いばらはもみの木に代えられ、おどろはミルトスに代えられたのです。4つ目、「良い地に蒔かれるとは、御言葉を聞いてそれを悟る人のことで、その人は本当に実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」種とはイエスさまが語られる御言葉ですが、イエスさまご自身でもあります。イエスさまは「一粒の種」として地に落ち、十字架で死んで人々の罪を引き受けられたことで、非常にたくさんの新しい命を生み出しました。種が芽を出し、根を張って土と結びつくように、私たちの心に蒔かれた御言葉が成長すると、私たち自身も御言葉に結び付けられ、多くの実を結ぶことが出来るのです。

(井上 靖紹長老)