背負いやすい重荷

「背負いやすい重荷」 2020/7/5

マタイ11:16-19、25-30

未曽有の半年が過ぎ、下半期に入りました。今日の箇所のマタイ11:28「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」は、よく教会の看板に使われる言葉です。
Kさんは仕事のことで悩み、死んでしまおうかとさえ考えていた時、教会の看板に書かれていたこの言葉を見て、若い頃読んだ八木重吉の「キリストが解決しておいてくれたのです。ただ彼の中へ入ればいい。彼に連れられていけばいい」という詩を思い出しました。そしてその教会の門を叩き、「イエスキリストがあなたのために十字架で死んで、よみがえられた。それによってあなたを救われた」という福音を聞きました。その時あの詩の意味がわかり、今まで味わったことのない平安が心にあふれてきたそうです。

「重荷」というのは人生の苦しみだけではありません。正しく生きようと思ってもそれが出来ない、そんな自分の罪との闘いの重荷でもあります。あの大伝道者パウロさえ「私には、自分のしていることがわかりません。」「善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。」(ローマ7:15、,18)と嘆いています。しかしその続きにこう書いています。「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」(ローマ7:25)わたしたち人間には罪を克服する力はないけれど、イエス様が十字架で解決しておいてくれたので、わたしたちは「主イエスキリストのゆえに」神に感謝することが出来るのです。

イエス様は重荷を「取ってあげよう」「無くしてあげよう」とは言っておられません。むしろ「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」とおっしゃいました(マタイ11:29)。これからもわたしたちはイエス様のように「柔和」で「へりくだった」生き方をすべきです(29節)。そして、だめだったら何度でもイエス様のところへ行きましょう。そして休ませていただいて、また歩き出しましょう。イエス様の十字架によって、わたしたちの重荷は「背負いやすく」なっているのですから。

(永田 令牧師)