私にはわかりません

「私にはわかりません」 2019/12/29

イザヤ63:7-9
マタイ2:13-23

きょうの福音書には、「イエス様誕生」という幸せな出来事の陰で、現実に起こった悲しい事件のことが記されています。
「新しい王」を拝むために、東の国から博士たちがやって来たことを知り、ヘロデ王は嫉妬に燃え、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子を1人残らず殺させます。何と恐ろしいことでしょうか。マタイはこの出来事で、「ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声。ラケルがその子らのために泣いている。ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ」というエレミヤの預言が成就したと書いています。ということは、神様はこの悲劇をはるか昔から知っておられたわけです。それならばなぜこの事件が起こらないようにしてくださらなかったのでしょうか?現代に起こる事件や事故や災害でも、「なぜ神様はあの人たちを助けてくださらなかったのか?」という疑問があります。それに対して人間が言えるのは、「私にはわかりません」ということだけです。
しかし神様はわたしたちの悩み、苦しみ、疑問の中に一緒にいてくださるお方です。そのことをわたしたちは「祈り」によって知ることが出来ます。
「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた」(イザヤ63:9)。神の御子イエス様は、私たちの闇を全部背負って十字架で死んでくださり、よみがえられました。だから、たとえ闇のような状況でも、その先には必ず希望があるのです。きょうの事件を預言したエレミヤ31章には、次のような言葉が続いています。「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。…あなたの将来には望みがある。…あなたの子らは自分の国に帰って来る」(17-18節)。 人間には、他人の痛みや悲しみのすべてはわかりません。だから軽々しい言葉は禁物です。でもイエス様はわかっておられます。そしてすべてを背負って十字架にかかってくださいました。ここに慰めがあり、希望があります。この慰めと希望を、「言葉を超えた方法」で他の人々に知らせましょう。

(永田 令牧師)