力なき者の力

「力なき者の力」 2017/12/3

イザヤ64:1~7
マルコ11:1~11

今日はアドベント(待降節)第一主日です。この日は毎年、イエス様がロバの子に乗ってエルサレムに入城された箇所を読みます。なぜなら、イエス様はここエルサレムで十字架にかかって死ぬためにお生まれになったからです。イエス様の死と復活によって、わたしたちの罪は赦され、洗礼によって新しい命に生まれ変わりました。そのことをわたしたちは礼拝のたびごとに、聖餐式のたびごとに感謝し、主を賛美するのです。
今日の箇所でイエス様は、ライオンや馬ではなく、「まだだれも乗ったことのない」ロバの子に乗ってエルサレムに入城されました。行くべき道順も、力加減もわからない、すぶの素人です。ルターはこの子ロバを、「わたしたちの内なる信仰」にたとえました。わたしたちの信仰は、この子ロバのように頼りなく、よろめいたり、こけたり、わけのわからない方向に行ったりしてしまうものです。
しかし、だからこそ、自分の力ではなくイエス様により頼んで歩むとき、イエス様がしっかり手綱を握って、進むべき道をリードしてくださいます。だからわたしたちは、よろめきながらでも、一歩一歩、歩いて行けばいいのです。「あなたがたは、ことばといい、知識といい、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者とされたからです。」(Ⅰコリント1:5)
マタイの福音書を見ると、この子ロバの後ろから、母親のロバがついて行っていたことがわかります。大人のロバは足取りもしっかりしており、とても役に立つ動物です。ルターはこの親ロバを「わたしたちの外なる人」にたとえました。わたしたちの内なる信仰にイエス様が乗って、手綱を持って進んでくださるとき、それに続いてわたしたちの外なる人、すなわち隣人への愛の行いが、後ろから従っていくのです。わたしたちに力がないからこそイエス様の力が発揮される、これが「力なき物の力」です。マザー・テレサの言葉。「私が死んだ後、神が私より、もっと無知で無能な人をお見つけになったら、その人を通して、より偉大なことをなさることでしょう。なぜなら、いま私がしていることは、神がしていらっしゃることなのですから。」 (永田 令 牧師)