切り株から新芽が

切り株から新芽が」 2019/12/8

イザヤ11:1-12
マタイ3:1-12

アフガンで召された中村哲さんは、「いま医師として患者に向かうのではなく、病気になる根源に向き合わなくてはならない」とおっしゃっていました。
 それと同じように、イエス様が地上に来られたのも、人間の目先の問題解決のためではなく、もっと根源的な罪の束縛から人間を救い出すためでした。
アドベントにはよく、バプテスマのヨハネの箇所を読みます。ヨハネが語った「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイ3:2)、これこそアドベントにふさわしいメッセージです。このヨハネのことをイザヤは700年前に「荒野で叫ぶ者の声」と預言しました。文字通りヨハネは荒野で叫びましたが、それは地上の荒野のことだけではなく、神を恐れぬ人間の心の荒野を指しています。この心の荒野は、現代のわたしたちの心をも支配しています。その荒野に、「悔い改めなさい」という神様の御言葉が響くのです。
きょうの旧約聖書は、イザヤが語ったもう一つの預言です。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」(イザヤ11:1)。エッサイはダビデ王の父親です。ダビデの子孫から新芽が生え、若枝が出て、そこにすべての国の人々が集まってくる・・、これはイエス様のことです。最初の人間アダムが罪を犯した時から、その何千年もあとのイエス様の誕生は既に預言されていました。ここに聖書の壮大なドラマがあります。 「斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます」(マタイ3:10)。わたしたちもアダムの罪を引き継ぐ者であり、自分では「良い実」を結べない者です。だから本当ならば神様に切り倒されて、火に投げ込まれるはずでした。しかしイエス様が代わりに切り倒されてくださいました。その切り株から新芽が生えてきます。それはイエス様の霊による新しい命です。愛、喜び、平安といった聖霊の実を結ぶ命です。わたしたちが日々悔い改めてイエス様の十字架と復活を心に刻み、主への感謝をあらわす時、まるで切り株から新芽が生えてくるように、わたしたちも愛の根を張り、芽を出し、花を咲かせ、世界の面に愛の実を満たすことが出来るのです。

(永田 令牧師)