見えるようになれ

「見えるようになれ」2019/3/17

エレミヤ26:7~19
ルカ18:31~43

四旬節第2主日となりました。今日の福音書は、イエス様がご自身の受難について弟子たちにはっきり語られた箇所です。イエス様の受難予告はこれで3度目です。ところが「弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった」(ルカ18:34)とあります。言葉の意味がわからなかったのではありません。イエス様の受難が「自分の身代わり」であることがわからなかったのです。

わたしたちも、信仰生活が長いからと言って「イエス様のことはよくわかっている」と思ってはいけません。今日の旧約聖書エレミヤ26章で、悔い改めを迫るエレミヤの言葉を「神様からの言葉」として本気で受けとめたのは、神様に仕える祭司や預言者ではなく、一般の裁判官と民衆でした。

自分の中にかたくなな心を見つけた時は、どうすればよいのでしょうか?そうです。今日の福音書に出てくる盲人のように、「イエス様、私をあわれんでください」と叫ぶことです。この盲人の箇所は、ただイエス様が盲人の目を開いた、ということを記録しているのではなく、「イエス様はわたしのようにかたくなな者の心の目も開いてくださり、本当にイエス様を見る者としてくださる」ということを教えているのです。

今日の盲人は、目が開かれた時、「神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した」とあります(ルカ18:43)。「わたしは罪深い者だ。でもだからこそイエス様が身代わりに十字架で死んで復活された。そのおかげで、もうわたしは救われている!」・・そのことに目が開かれた時、人は賛美しながらイエス様について行きます。そしてそれをみて他の人々も神様を賛美するようになります。これこそ伝道です。そうなるために、まずわたしたち自身がもう一度、他の何かではなくイエス様を見て、喜んでイエス様について行きましょう。「わたしたちの心の目を、自分の不信仰を責める方向にではなく、あなたのみわざを喜ぶ方向へと向けてください。」(「マナ」2月号より)

(永田 令 牧師)