私は今、今に至るまでのすべてのことにおいて神様からの導きがあったのだとの思いがあります。
私が歩んできた道の、すべての選択の場面で、その時の私が心を開いて聖書の神のことばに耳を傾けようとする時があったなら、こんなに信じることに時間がかからなかったのかもしれません。
ただ、私が神様を信じることができるようになる、その神様からの時間は49年間だったのです。
「楽しいことが多かったですか?」と聞かれれば、私は「そうでなかったことの方が多いでしょう」と答えるでしょう。
「でも今は?」と聞かれれば、それは今神様を信じていない多くの人々にもわかるくらいに、私にとっては当たり前の答えでしょう。
私は、新しく生まれ変わりました。
これは、私が自分で力を込めて言えることです。
当時の自分に一番良かったと思えることは、キリスト教が嫌いだったことです。
私はその時、クリスチャンにならない自信があったから、教会に訪れた当日に礼拝にも出席できたし、毎週礼拝に通うこともできたと思います。
礼拝中、使徒信条を唱えるのはあり得なかったし、「献金は神様への感謝のしるし」と言われていたのでこれ幸いと献金も一切しませんでした。
もし仮に私が何か異国の神に何か感じるところがあっても、私はご先祖に申し訳がたたないので、そんなことはできないと割り切っていました。
ただ、何かを嫌うには理由がいりました。
あることに対してよく知りもしないのに嫌悪感を抱くのはいけないことだというのは誰にでもわかることです。
だから、その嫌いになる理由が欲しかったのか、知りたかったのか、怖いもの見たさだったのか、それは私にもよくわかりませんが、とりあえずそんな動機が多くありながら私は教会に通いました。
聖書も読みました、もっと知りたいので聖書講座もはじめました。
「私は、意思が固いのでキリストの信仰に惑わされたりはしない」そう思っていた私でしたが、そんな私にしか知り得ない心の中を、聖書のことばはその的確な答えで私の頑なな心を言い当てられました。
こんな、不謹慎な動機の私でも、神様は私に目を留めてくださいました。
キリスト教や聖書のことばを知れば知る分だけ、「惑わされてはいけない」と思っている私の心の中に、安らかな気持ちが増していきました。
知識が増えたことで知り得た安らぎではありません。
どんなにダメな人間でも、赦され、愛され、自分が尊い存在であるということが、心の中にあふれ出てくるのです。
自分の努力がそうさせたのではありません。
私が神様を信じる、その私が信じた神様がそうさせてくださったのです。
教会ブロガー「マック」