しもべとなった王

「しもべとなった王」 2019/1/13

イザヤ42:1~7
ルカ3:15~22

先週は東方の博士の箇所で2歳くらいだったイエス様が、1週間で約30歳になりました。この30年間の記録は聖書にほとんどありません。その間イエス様は普通のガリラヤの住民として、家族や友人と共に過ごしておられたのです。
きょうはイエス様の洗礼日。まるでわたしたち罪びとと同じように、イエス様は洗礼をお受けになりました。イエス様に洗礼を授けたバプテスマのヨハネはイエス様について「私など、その方のくつのひもを解く値うちもない。」と説明しました(ルカ3:16)。皆から尊敬されていたヨハネでさえ、くつのひもを解く値打ちもないとは、救い主とはいったいどれほど威厳に満ちたお方だろう、と人々は思ったことでしょう。ところがヨハネの前に姿を現したイエス様は、みずぼらしい身なりの、ごく普通の人でした。
イエス様が洗礼を受けて水から上がられると、天から神様の声がしました。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」この言葉は、前半が詩篇2:7(王の詩篇)、後半がイザヤ42:1(主のしもべの歌)から引用されています。「王の詩篇」には「あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。」という、王の権力がうたわれています。「主のしもべの歌」には「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」という、しもべのか弱さがうたわれています。イエス様は王の立場でありながらも、しもべのように弱くなられたお方です。だからこそわたしたち人間の苦しみ、痛み、悲しみがお分かりになるのです。そして挙げ句の果てにイエス様は十字架で処刑されました。このイエス様の死によってわたしたちの罪も死に、そしてイエス様の復活と共にわたしたちも新しく生まれ変わりました。今度はわたしたちが「いたんだ葦」を励まし、「くすぶる燈心」をおおう番です。それはわたしたちの力ではなく、わたしたちが洗礼を受けた時にイエス様が授けてくださった聖霊の力です。だからますます聖霊様が働いてくださるように、真剣に聖書を読み、日々祈りつつ歩んで参りましょう。(永田 令  牧師)