気持ちいいささげもの

「気持ちいいささげもの」 2018/11/18

一列王17:8~16
マルコ12:41~44

イエス様が神殿の献金箱に向かって座り、人々が献金する様子をじっと見ておられました。イエス様はいったい何を見ておられたのでしょうか?
まず第一に、献金する人が、神様に対してささげているか、それとも人に対してささげているかです。「多くの金持ちが大金を投げ入れていた」とあります。周囲の人々は称賛したでしょうが、イエス様は何の評価もなさいませんでした。しかし、ひとりの貧しいやもめが少額のレプタ銅貨2枚をささげた時、イエス様は「このやもめはどの人よりもたくさん投げ入れた。」と言われました。彼女が人に対してではなく神様にささげる気持ちで献金していたその心を、イエス様はご覧になったのです。今日の旧約聖書、Ⅰ列王記17章に出てくるやもめも、最後のパンをエリヤにささげました。彼女もエリヤ(人間)にではなく、神様にささげる気持ちでささげた人です。その結果「かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった」のです。(Ⅰ列王17:16)
二番目にイエス様が見ておられたのは、人々が犠牲を払うような気持ちで渋々ささげているか。それとも感謝して、喜びをもってささげているかです。今日のやもめの2レプタは、彼女の生活費全部でした。しかし彼女は「わたしがこんなに大きな犠牲を払うのだから、あなたも大きな見返りをください」という気持ちでささげたのではなく、「神様はわたしの犠牲などなくても、ただで恵みを与えてくださっている。感謝します!」という気持ちで、2枚のレプタ銅貨を「一度に」ささげました。その気持ちよさを、イエス様は喜ばれたのです。
わたしたちはどんな大きな犠牲を払っても足りないくらいの罪人です。しかしそんなわたしたちの代わりに、イエス様が十字架でご自身の命をささげてくださいました。このイエス様の犠牲で十分であり、他に一円たりとも必要ありません。そのことに感謝して、喜んで、自発的にささげものをしましょう。その時イエス様は喜ばれ、そのささげものを何倍にも祝福してくださいます。(永田 令 牧師)