神を汚しちゃってもいいの?

「神を汚しちゃってもいいの?」 2018/7/8

創世記3:8~15
マルコ3:20~30

『神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。』『しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。』(マルコ3:28~29)の二つの御言葉に矛盾を感じたことはないでしょうか?
この御言葉は、イエス様がユダヤ人(律法学者たち)に言われたということがポイントです。十戒には、『あなたの神、主のお名前をむやみにつかってはなりません。』(小教理問答 十戒 第二戒)と書いてあるので、ユダヤ人は『יהוה』という神の名前を発音すらしませんでした。ユダヤ人たちが父なる神をとても恐れ敬い、大切にしていたことがわかります。しかし、律法学者はイエス様に対して「悪霊どものかしら」と言いました。この文脈で、3:28,29を考えると、イエス様は、「父なる神」と「聖霊」の優劣の話をされたのではなく、ユダヤ人に、父なる神と同じように聖霊と御子イエス様が大切であると教えられたのです。
「三位一体の神」が聖書の神様です。どれも欠けてはいけませんし、どれも重要です。私たちは、「父・子・聖霊」の御名によって洗礼を受け、罪の赦しと新しい命を受け取りました。これは、イエス様が十字架によって、私たちの罪の命とイエス様の聖い命を交換してくださったからです。洗礼は、過去の出来事ではなく、今もずっと続いている私たちの『状態』です。
映画などで出てくる教会では、「十字を切る」シーンがよく見られますが、ルターは、「十字を切る」ことを小教理の中で勧めています。十字を切るのは、「父・子・聖霊」の御名によって受けた洗礼を思い起こすためです。私たちが日々、罪を犯してしまったとしても、十字を切るたびに洗礼を思い出し、そんな罪深い私たちを神様は見捨てず、 救ってくださったと思い出すことができるからです。
毎日、神様が私たちに与えてくださった洗礼を思い起こし、神様の恵み深さに感謝し、喜んで、神を愛し、隣人を愛し仕えていきましょう。 (高平真生神学生)