隣人愛にまさる法なし

「隣人愛にまさる法なし」 2018/7/1

イザヤ58:11~14
マルコ3:1~12

安息日は神さまの言葉を頂いてリフレッシュする日です。もっと言うなら、解放の日です。現在の安息日は、イエスさまが十字架で死なれて三日目の日曜日に復活されたことで、私たちは罪と死の支配から解放されたから、日曜日です。それ以前の安息日は土曜日です。これはエジプトで奴隷として支配された日々が終わったことを記念する日でした。
ところが、パリサイ人たちはこの解放の日を、多くの禁止事項で束縛する日にしていました。その一つが病気やけがの治療の原則禁止です。
彼らは、安息日にイエスさまが手のなえた人を癒せば告発してやろうと注目していました。イエスさまは彼らのたくらみに気づいて「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。」と問いかけます。
彼らは安息日にできることできないことを細かく定めていましたが、それを善なる行いか悪の行いかで分けるとは、思いもしませんでした。
しかし、安息日が罪からの解放の日であることを思うなら、イエスさまの言葉は当然でした。罪から解放された魂にふさわしいのは善い行いだからです。
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁じる律法はありません」とパウロは言います。解放された魂にふさわしいのは御霊の実です。義に従う人間は、律法に縛られる必要がなくなるのです。パリサイ人が考えることは律法による禁令でした。
新しい酒を古い革袋に入れれば、新しい酒の膨張に古い革袋は耐えられずに破れてしまうように、イエスさまを信じる信仰を律法にこだわる従来の信仰のあり方に入れたら、たちまち破たんさせるでしょう。
イエスがキリストである信仰は、新しい信仰者、新しい革袋に入れねばならなかった。イエスさまが辛抱強く弟子たちの心からの信仰告白を待たれたのは、そのためでした。逆に言えば、イエスさまを信じる信仰を受け入れた者は既に新しい革袋、新しい信仰者なのです。それは、ここにおられる皆さんのことです。皆さんには、愛の心を持ち、隣人愛を行うことがおできになります。悲しむ者と共に悲しみ、喜ぶものとともに喜ぶ。これこそ隣人愛です。それはあらゆる法に優るのです。
愛を行いましょう。そのときこそ、魂は自由なのです。 (井上 靖紹長老)