ほんとうの休息

「ほんとうの休息」 2018/6/24

マルコ2:23~28

安息日(土曜日)に、イエス様と弟子たちが麦畑を通りながら、麦の穂を摘んで食べていました。ユダヤでは、飢えた人が他人の畑の麦を手で摘むのはゆるされています。ところがその日が「安息日」だったために、パリサイ人たちが「安息日に収穫(仕事)をした」と言って厳しく非難しました。それに対してイエス様は「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。」(マルコ2:27)とお答えになりました。
天地創造の時、神様は6日間でこの世界を創造され、7日目に休まれました。ここから安息日が定められました。つまり安息日とは、「仕事をしていないかどうか神様が監視する日」ではなく、張りつめた竪琴の弦をゆるめるように、6日間の緊張から解かれてリフレッシュし、自分に与えられた務めに再び出ていくための日です。それによってこの地上に、神様の望まれる良い世界を造り上げていく・・これが安息日の目的です。
「では安息のために、たまには教会も休もう」という人があるかもしれません。しかしそうではありません。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタイ4:4)。生きるために、食べたり飲んだりすることは大事です。しかしそれだけでなく、神様からの命の言葉がなければ、たとえ体を休めても、本当に元気を取り戻すことは出来ません。
神様を第一とせず、安息日を軽んじ、自分のために使ってしまうわたしたちの身代わりに、御子イエス様が十字架で死んでくださり、よみがえられました。それによってわたしたちは罪の奴隷から救い出され、自由の身となりました。そのことを、安息日のたびごとに、み言葉によって、聖餐式によって、心に刻むのです。その時わたしたちに、本当の休息が与えられます。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)というイエス様のお言葉通りです。
『つながれて いるから高く あがる凧』(新聞の川柳より)(永田 令牧師)