私が罪人だからこそ

「私が罪人だからこそ」 2018/6/10

マルコ2:13~17

本日の箇所は、アルパヨの子レビ、つまりマタイが弟子に加わった場面です。マタイは取税人でした。取税人は役人ではなく民間の業者です。ローマでは税金の徴収は民営化されていて、税金は債権として民間に払い下げられました。払い下げた段階で国は収入を得ていて、後は民間で債権を回収するだけです。仕事に励んで順調に回収、つまり徴税できれば払い下げ価格を超えるのは当然で、その分を儲けにするのは全く合法でした。しかし、ユダヤの人々は、取税人は税金を過大に徴収するから儲かるのだと思いこみ、そこヘパリサイ人が愛国心を煽ってローマのために税金を取る取税人を非難したので、完全に社会からのけ者にされていました。
ところが、イエスさまがマタイに言われたのは「わたしについて来なさい」でした。マタイは雷に打たれたように従い、イエスさまを自宅に招待して、もてなしました。仲間の取税人や罪人たちも大勢食卓に着きました。彼らは自分たちの嫌われようの理不尽さを感じていたので、仲間の中から、普通の人々と同様にイエスさまの弟子が出たことを心から喜んだのでした。しかし、パリサイ人の律法学者は「なぜ、あの人は取税人や罪人と一緒に食事をするのですか。」と非難しました。イエスさまは言われました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」マタイの心に再び電撃が走りました。彼は取税人として非難されつつ、そう言う人たちこそ、あの手この手で税金をごまかすことを知っていました。自分たちだけが罪人と言われることに強い疑問と怒りを感じていました。しかし、罪人であるからこそ、救い主は招いて下さるのです。マタイの疑問も怒りも、霧のように晴れて行きました。イエスさまが取税人や罪人を仲間としてくださったように、彼は生涯、自分を取税人マタイと称し、罪を犯してしまう人の心に寄り添いました。彼が著したマタイの福音書は失敗続きの弟子たちを責めません。イエスさまを裏切ったユダが後悔する場面を書いたのもマタイだけです。罪人、ろくでなし、弱虫、しくじり、これらは皆、病気で医者に行く理由となるように、イエスさまに来ていただける理由となるのです。これはマタイが感動したように、まことに感動すべき事実なのです。 (井上靖紹 長老)