落第生だった弟子たちを

「落第生だった弟子たちを」 2018/4/8

Ⅰヨハネ5:1~5
マルコ6:9~18

イエスさまは弟子たちに福音を理解させるために訓練を重ね、それには2段階ありました。第1段階は、イエスさまがキリストであることを信じることで、これは8章のペテロの告白で何とか到達できました。
ところが、弟子たちは、キリストは十字架につけられて殺され、三日後によみがえるという第2段階が理解できません。
理解していないので、16章で、イエスさまがよみがえられたと何度告げられても、合点がいきません。
しかたなく、イエスさまはまず、マグダラのマリヤに現われ、次に彼らのうちの二人にご自分を現されました。それでも、彼らは信じなかった。
ついにイエスさまは、弟子たちが揃って食卓についているところへ姿を現さざるをえなくなりました。元々ガリラヤで彼らと会う予定で、そう告げていたのに、だれ一人ガリラヤへ向かわなかった彼らは全員落第生でした。
ところがイエスさまは言われました。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」いわゆる大宣教命令です。落第生の弟子たちに全人類の救いを委ねると言うのです。
しかし、彼らこそ適任者でした。なぜなら、アダムとイブが楽園で落第して以来、落第生であることこそ人類の変わらぬ現実だからです。
クリスチャンとは、ペテロたち以来、ずっと落第生の集まりです。合格点の人なんか一人もいません。全員がお情け合格です。
エペソ人への手紙2章8節に「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」とあるとおりです。
ですから、皆さんが自分はクリスチャンとして落第生だと思っているなら、それが正しい信仰のあり方なのです。イエスさまの救いはそういう落第生たちのためのものです。
救いは恵みです。お情けです。神さまを崇めましょう。 (井上靖紹長老)