無明長夜の灯火

「無明長夜の灯火」 2017/11/19

マタイ25:1~13

今日の箇所は、既に終わりが始まったこの時代を乗り越えて天国に至るための心備えをイエスさまが命じた場面の一つ、花婿を待つ十人の娘の喩えです。花婿はキリスト、花嫁は教会、花嫁に付き添い花婿を迎える娘たちは信徒を表しています。娘たちの灯火を見て、花婿、キリストは神の家族と認めるから、灯火とは信仰のことです。
娘たちのうち賢い五人は油を用意し、愚かな五人は用意しなかった。これは、花婿が遅れても待つ意思のあるなしでした。油とは聖霊のことです。神さまを大切に思うなら、聖霊に従うことです。他のことを大切に思うなら、聖霊に逆らうことで、聖霊の働きはとまり、引き上げられていきます。愚かな娘に喩えられる人は、キリストの再臨の日に信仰を整えようにも、聖霊が内におられず、できないのです。
なぜ、主の再臨は遅く、直ちに来ないのでしょう。ぺテロの手紙第二3章9節に「一人でも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」と書かれています。世界の全てに福音が届けられるまで、ときは至らないのです。つまり、今なお扉は開かれているのですから、油の用意がない人も、今から用意すれば間に合います。
イエスさまと一緒に十字架につけられた死刑囚の一人は極悪人で、良いことは何もできなかったのに、天国に迎えられました。十字架の上の彼にできたのはつぶやくことだけでした。彼は、そのつぶやく自由において、イエスさまを第一にした。それだけで、彼は油の用意ができたのです。
私たちの信仰は、婚礼の祝いの光であり、未来に自分が招待された席があることの保証です。未来から届いた喜びの光です。その未来と今とをつなぐのは信仰を保たせる油、聖霊です。未来における喜びを覚えて、今を生きてまいりたいと思います。(井上靖紹長老)