解放されたのに

「解放されたのに」 2017/10/8

マタイ18:21~35

ペテロがイエスさまに「兄弟が罪を犯した場合、何度まで赦すべきですか。七度まででしょうか。」と質問しました。すると、イエスさまは「七度を七十倍するまで」と言われました。人間はそんなに我慢できるはずがありません。イエスさまは罪の赦しについて、人間的な我慢ではなく、天の御国の話として、たとえを語られます。
王様から一万タラントの借金を免除してもらったしもべが、百デナリを貸した仲間を赦さず、牢に入れました。王様は「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。」と怒り、免除を取り消して、しもべを牢に入れました。しもべの借金とは私たちが犯した罪のことです。それは想像を絶して大きく、返済、つまり罪の償いは不可能なのです。
自分から百デナリを借りた仲間とは自分に罪を犯した兄弟です。ペテロの質問との関連で考えると、この仲間の借金は初めてではなく、何度も赦したが、もう赦さないと思ったのかもしれません。
当時、ユダヤでは、兄弟は三度まで赦せと教えていました、日本でも「仏の顔も三度まで」です。洋の東西を問わず、なぜ四度目は赦せないのでしょう。自分が赦すばかりでは相手と不公平だと感じるからです。人は不公平に耐えられないのです。(その点、ペテロが赦しは七度と言ったのはすごいことですが、根本的な問題点に変わりはありません。)
しかし、それは人間だけの貸し借り勘定です。神さまが勘定に入っていません。イエスさまの言う天の御国とは、最初に神さまを勘定に入れる世界です。神さまを勘定に入れれば、圧倒的に自分が借金を、罪を赦してもらった側であることに気づきます。不公平など、どこにもありません。(つづく)
罪の赦しとは、我慢することではない、憐れむことです。それは我慢することによる不公平感の束縛から解放されることでもあります。解放された者にふさわしく、再び束縛していたものに戻ることのないよう、生きてまいりたいと思います。 (井上 靖紹長老)