わたしを信じる者は死んでも生きる

2023/3/12 四旬節第3主日礼拝メッセージ

ヨハネの福音書11章1~45節

本日の箇所は、イエスさまがマルタとマリヤの姉妹の兄弟であるラザロという人をよみがえらせたところです。2節によると、このマリヤは主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであると書かれています。その香油は三百デナリ相当で、労働者が一年間フルに働いた時の年収に当たります。それだけ高価な香油をイエスさまに使ったことは、マリヤの感謝がそれだけ大きかったことを表しています。なぜそれほどまでイエス様に感謝しているのでしょうか?

ラザロが病気になった時、マルタとマリヤはすぐにイエスさまに知らせました。自分たちへの友愛によって、イエスさまはすぐ駆けつけてくださると思っていました。ところが、イエスさまはすぐには行かれませんでした。友愛よりももっと広い愛の心で、イエスさまはマルタやラザロたちを包んでいたのです。でも愛の心で包んでおられたなら、なぜすぐに行かれないのでしょうか?ラザロが死ぬことは、マルタとマリヤにとって最悪の事態でした。しかし神さまから見て、人の最悪とは神さまの愛から断ち切られることです。神さまの愛から断ち切られるなら、未来には滅びしか待っていないからです。神さまの愛にとどまるなら、その人に本当の死はありません。イエスさまはラザロに二度と死の世界にとらわれることのない命を与えようとして、あえて二日間出発を延ばされたのでした。

イエス様が到着された時、ラザロは既に死んで墓に葬られ、四日もたっていました。マルタは「もう臭くなっておりましょう。」(39)と言いました。しかし、イエス様が墓に向かって「ラザロよ。出てきなさい。」と大声で叫ばれると、死んでいたラザロが自分で出てきたのです。まさに神業です。ただ、よみがえったこと自体はその人に救いを与えるものではありません。人を死につなぐ存在、それは人の罪です。罪を犯す者は命をもたらす神さまから離れていき、その向かうところは死と滅びの世界です。しかし罪に対する神さまの怒り、罪への罰は、救い主キリストが十字架にはりつけにされることで下されました。だから救い主を信じる者は、罪の力によって死につながれておらず、死の世界、滅びの運命から解放されています。これこそ福音です。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」(25)。

(井上靖紹長老)