新しい事がはじまる

「新しい事がはじまる」 2023/1/8 主の洗礼(顕現後第一)主日礼拝メッセージ

マタイの福音書3章13~17節

きょうは1月の第2日曜。イエス様が洗礼を受けられたことを記念する「主の洗礼日」です。しかしイエス様に洗礼を受ける必要があったのでしょうか?洗礼というのは罪びととして一度死んで、神様の子どもとして生まれ変わる式です。でもイエス様は元々罪がなく、元々神の子ですから、罪がゆるされる必要も、神の子として生まれ変わる必要もないはずです。しかしイエス様の洗礼は、ご自分のためではなくわたしたち人間のために絶対に必要でした。聖書に「主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。」(ヘブル2:17)とあります。つまり人間の罪を清めるためのいけにえとして、イエス様はすべての点で人間と同じようになる必要があったのです。

イエス様は、旧約聖書に記されたご自身についての預言をもれなく成就する必要がありました。イエス様が洗礼を受けられたのも、預言を成就するためです。旧約聖書のイザヤ書に出てくる「主のしもべの歌」(明確にイエス様のことを預言した歌)の中に「わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。」とあります(42:1)。この言葉通り、イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになった時、聖霊が鳩のようにイエス様の上にくだりました(マタイ3:16)。イエス様の洗礼によって聖書の言葉が成就した。つまりイエス様の洗礼は、イエス様が救い主としての条件を満たすために、絶対に必要なことだったのです。

聖霊を受けたことで、イエス様の救い主としての歩みが本格的に始まりました。倒れそうな人を起こし、心の火が消えそうな人を燃え立たせ、ついには人間の罪を背負って十字架にかかり、わたしたちを救ってくださいました。このお方を救い主と信じて洗礼を受ける人は、罪がゆるされ、癒されます。そして今度はその人自身が、イエス様のように人々を癒す者となります。なぜなら洗礼を受ける人には、イエス様と同じように聖霊が与えられると聖書に書いてあるからです。「新しい事を、わたしは告げよう」(イザヤ42:9)。聖霊様に信頼して、新しい歴史を作って参りましょう。

(永田令牧師)