1ミリもなくても

「1ミリもなくても」 2022/8/28 聖霊降臨後第12主日礼拝メッセージ

ルカの福音書14章1、7~14節

イエス様が、あるパリサイ派の指導者の家に食事に招かれました。そのとき客たちが自分で上座を選んでいる様子に気づかれました。そこでイエス様はたとえを話されました。「婚礼の披露宴に招かれたときには、上座にすわってはいけません。あなたより身分の高い人が、招かれているかもしれないし、あなたやその人を招いた人が来て、『この人に席を譲ってください』とあなたに言うなら、そのときあなたは恥をかいて、末席に着かなければならないでしょう」(14:8-9)。

日本人がこれを聞くと「そんなの当たり前。自分から上座に座るなんて非常識。」と思うかもしれません。しかし日本人も心の中では「わたしは本当はもっといい席のはずだ」と思っているのではないでしょうか?

神様はわたしたちの心の中を見抜かれます。そして「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」と言われます(14:11)。これは社会人として、「傲慢な人ではなく謙遜な人になりなさい」というだけの意味ではありません。これは天国のたとえです。「自分を高くする者」とは、自分の努力や行いによって天国に行けると思っている人です。しかしどんなに良い行いをしていても、それと天国とは1ミリも関係ありません。心の中では誰もが自己中心です。天国の祝宴にあずかる方法はただ一つ。天国の席を特別に「ゆずっていただく」しかありません。その席をゆずってくださるのがイエス様です。イエス様は天国の「王子」の座につくべきお方です。ところが天国を追い出され、十字架で地獄の苦しみを受けて、死んでくださいました。罪深いわたしたちに席を譲るためです。「自分を低くする者」とは、自分の罪深さを認め、イエス様が代わりに死んでよみがえられたことを信じて、洗礼を受ける人です。その人は「高くされる」、つまり天国へ引き上げられます。その資格が1ミリもないのにです。そのことを心から喜び、感謝する場が礼拝です。礼拝はいわば天国の「体験版」です。

このように、わたしたちは神様から何の見返りも求められずに救われたのですから、わたしたちもまた、困っている人や助けを必要としている人に手を差し伸べましょう。たとえ見返りが1ミリもなくても自分のなすべきことをしていく、そこにこそ、神様のわざが現れるのではないでしょうか?

(永田 令 牧師)