この命輝いてこそ

「この命輝いてこそ」 2022/7/31 聖霊降臨後第8主日礼拝メッセージ

ルカの福音書12章13~21節

ある人がイエス様にお願いしました。「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください」(25)。・・ずいぶん露骨に思えまずが、当時のユダヤ教のラビ(教師)は、こういう相談にも応じていました。しかしイエス様は「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか」(14)と厳しくおっしゃいました。なぜでしょうか?彼が兄弟と一緒に来たのではなく、一人だけで来て、自分の思い通りの結論に持っていこうとしたからです。そんな彼をイエス様は「貪欲」とみなしました。

コロサイ3:5に「むさぼり(貪欲)が、そのまま偶像礼拝なのです。」とあります。偶像礼拝とは、神様ではないものを礼拝することですが、それはただ宗教的な偶像を拝むことだけではなく、貪欲やむさぼりもそのまま偶像礼拝です。創造主なる神様を無視して、代わりにモノや思想やライフスタイルで心を満たそうとすることは、すべて偶像礼拝です。ルターによれば、人間は神様を礼拝するか、偶像を礼拝するかのどちらかしかありません。中間は存在しないのです。

このあとイエス様は、ある金持ちのたとえ話をされます。金持ちの畑が豊作だったので、彼ははじめの倉を壊して、もっと大きいのを建て、「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」と言います。しかし神様はその夜、彼の命を取り上げられたのでした。この金持ちは法的には間違っていません。しかしそうした豊かな富を神様に感謝することもなく、困っている人のために使うという発想もありませんでした。彼の人生は貪欲、すなわち偶像礼拝そのものだったのです。

わたしたちもこの金持ちのように偶像礼拝をしているのではないでしょうか?しかしそんなわたしたちの身代わりに、イエス様が十字架で死んでくださり、よみがえられました。イエス様を信じる人は、新しい命に生まれ変わります。イエス様はおっしゃいました「人のいのちは財産にあるのではない」。では何にあるのでしょうか?イエス・キリストにあります。だからいつもイエス様の十字架を仰ぎ見ましょう。そして自分の命や財産を、自分のためだけでなく、他の人々のためにも使いましょう。その時こそわたしたちの命は、生き生きと輝くのです。

(永田 令 牧師)