罪と恵みの旅路

「罪と恵みの旅路」 2022/5/1 復活節第3主日礼拝メッセージ

ヨハネの福音書21章1~14節

ヨハネ21章は、20章で終わるつもりだったヨハネが付け加えた章と言われています。この章は弟子たちがイエス様と歩いた3年間の総集編のような章です。
よみがえられたイエス様と再び会うために弟子たちは故郷ガリラヤへ行き、もと漁師のペテロはガリラヤ湖で漁を始めます。ところが一匹の魚も獲れませんでした。見ると岸辺に一人の人が立っています。それはイエス様でした。しかし弟子たちにはそれがイエス様だとわかりません。目は見えていても、目の前にイエス様がおられることがわからない、ということがあります。自分の力に頼ったり自分を誇ったりしている時、わたしたちにはイエス様が見えないのです。
岸辺に立つ「その人」の指示で、舟の右側に網を降ろしたところ、網いっぱいの魚が獲れました。それは3年前、ペテロたちがイエス様の弟子になった日のことを思い出すような出来事でした。

岸に戻った弟子たちに、イエス様はパンと魚を差し出してくださいました。これも、イエス様が5つのパンと2匹の魚で5000人以上の人を満腹にした時のことを思い起こさせました。またパンを分けるそのしぐさは、十字架の前夜の聖餐をも思い起こさせました。こうしてかつての様々な出来事を思い起こさせることによって、イエス様は弟子たちに、自分が罪びとであることをあらためて自覚させようとされたのです。「あの時も、この時も、自分はイエス様を疑い、自分の力に頼った。今もイエス様が見えていない。」そのことを自覚する時、わたしたちは、神様の恵みの大きさをも再確認するのです。「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」(ローマ5:20)。「こんな罪深いわたしのために、イエス様が身代わりに十字架で死んでよみがえってくださった。それによってわたしの罪はゆるされた。」このことへの感謝が、罪を自覚すればするほど満ちあふれてくるのです。

イエス様を迫害していたサウロは天からの光で目が見えなくなりますが、悔い改めと、信仰の友の祈りによって目からうろこが落ち、大伝道者パウロとして生まれ変わりました。わたしたちも自分の歩みを悔い改め、救いを感謝し、兄弟姉妹と祈り合いましょう。それによってわたしたちの目は開かれ、イエス様が見えるようになっていくのです。

(永田 令 牧師)