キリストにつながって

「キリストにつながって」 2021/5/2

ヨハネ15:1-8

「わたしはまことのぶどうの木です」とイエス様は言われました(ヨハネ15:1)。「まことの」というのは「偽物ではなく本物の」という意味です。「偽物のぶどうの木」もあります。それはここではイスラエルを指しています。本来イスラエルは神様に選ばれた国であり、聖書も読んでおり、神様のことを一番よく知っているはずの国でした。神様はイスラエルに甘いぶどう(公正、正義)を期待しましたが、出来たのは酸いぶどう(流血、泣き叫び)でした。彼らが聖書を読んでも本気で悔い改めることなく、ただ自分の願望を満たすために人を利用し、神様さえも利用したからです。「自己実現」だけを追求する人生に本当の幸せはありません。

わたしたちも、「神と隣人を愛せよ」という教えが聖書にあることを知りながら、それを実践しているでしょうか?あるいは実践できていないことを本気で悔い改めているでしょうか?本気で悔い改める時に素晴らしいことが起こります。イエス様の十字架の血潮がわたしたちを清め、わたしたちは良い実を結ぶ者へと変えられて行くのです。

「わたしにとどまりなさい」(4節)とイエス様は言われました。「とどまる」というのは「離れないでいる」「つながる」という意味ですが、「宿る」「住む」という意味もあります。「自分の力で必死にイエス様にしがみつく」のではなく、家の中や宿の中に「ほっこりと居る」というイメージです。聖書の御言葉に真剣に耳を傾け、悔い改めて、わたしたちの身代わりに死んでよみがえられたイエス様を「神の子、救い主」と告白することによって、またイエス様のまことの体と血であると信じて聖餐にあずかり続けることによって、わたしたちはイエス様につながり、イエス様と一つになることが出来ます。

こうしてイエス様につながる人は、神様と隣人を愛する人となり、必ず実を結ぶことが出来ます。ちょうどぶどうの枝がぶどうの木とつながっていれば、甘い実を結ぶことが出来るように。なぜならわたしたちはイエス様とつながっており、わたしたちの手足は、もはやイエス様ご自身の手足なのですから。

(永田 令 牧師)