神の赦しを届ける者となる

「神の赦しを届ける者となる」 2021/4/11 主日礼拝メッセージ

ヨハネ20:19-31

イエス様が十字架で死なれてから三日目の夕方、弟子たちは「ユダヤ人を恐れて戸を閉めて」集まっていました。彼らはエルサレムから脱出することも出来ましたし、しょっちゅう「自分たちの中でだれが一番偉いか」と言い争いをしていたくらいですから、さほど仲が良かったわけでもありません。それなのに、なぜ彼らはエルサレムにとどまり、しかも集まっていたのでしょうか。それはイエス様の「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)という戒めを彼らが覚えていたからです。

教会は、この「互いに愛し合いなさい」という戒めを実践する場です。きょう弟子たちが集まっていたのは「週の初めの日」、すなわち日曜日でした。彼らは「最初の日曜礼拝」をしていたと言えます。だからそこヘ復活のイエス様が来られたのは当然のことでした。「二人でも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」(マタイ 18章20) とあるように、教会の礼拝にはイエスさまがおられます。そして教会の集まりの中で兄弟姉妹が交わり、互いに愛し合うという戒めを体現していくのです。

部屋に入って来られたイエス様は、ご自分がよみがえられたしるしに十字架で死なれたときの釘の跡と槍の傷を弟子たちにお見せになりました。また、ちょうどそのとき不在だったためイエス様に会えず、不平を感じていたトマスのために、1週間後の日曜日に再び来てくださいました。イエス様は教会全体のみならず、たった一人の信徒のためにも心を砕いてくださるお方です。

31節にヨハネの福音書の目的が書かれています。それは「あなたがたが(イエスを)信じて、イエスの御名によっていのち得るため」、つまり罪の放しです。
この罪の赦しを与える使命を、イエス様は弟子たちにお与えになりました。マタイ9章に書かれているように、人の罪を赦すことは神様にしかできない最高の権能です。しかしその権能をイエス様は教会、すなわち罪を赦された者たちに与えてくださったのです。それは私たちが人を赦すためです。争いや訴えの絶えないこの世の中で、私たちは神の赦しを届ける者になりましょう。

(井上 靖紹 長老)