栄光ある人生

「栄光ある人生」 2021/3/21 主日礼拝メッセージ

ヨハネ12:20-33

冬、枯れ木のようになっていた桜が、春になるとまた花を咲かせるように、わたしたちの人生も、冬のような時期を通ったとしても、必ず春がやって来ます。「イエス様が十字架で死んで復活された」という事実が、それを証明しています。

ある日、ギリシャ人たちが「イエス様に会いたい」と申し出ました。イエス様は弟子たちに「人の子が栄光を受けるその時が来ました。」と言われました(ヨハネ12:23)。弟子たちは「いよいよイエス様が世界から栄光を受ける時が来た」と理解しましたが、イエス様がおっしゃった意味は「わたしが十字架にかかって死ぬべき時が来た」ということでした。イエス様がすべての人の罪を背負って十字架で死んで復活する、これこそイエス様の栄光でした。一粒の麦は、地に落ちて死んで初めて豊かな実を結ぶことが出来るのです。「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです」(ヨハネ12:25)。

しかしわたしたちは本質的に自分を愛する者であり、他の人のためにいのちをささげることなど出来ません。イエス様でさえ、十字架を前にして「できますならば、この杯(十字架)をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈られました(マタイ26:39)。でもこれこそわたしたちのための苦しみでした。わたしたちが出来ないからこそ、代わりにイエス様が十字架で死んでくださり、よみがえられたのです。そのことを自分のためだったと信じて洗礼を受け、日々イエス様と交わっていく時に、わたしたちは少しづつ、人のためにいのちをささげる者へと変えられて行きます。イエス様ご自身がそのようにしてくださるのです。

有名な讃美歌「いつくしみ深い」の作詞者ジョセフ・スクライブンの人生は不幸の連続でした。しかし「自分はイエス様の十字架によって救われた」という信仰と、イエス様を友として歩む、という静かな喜びの中で彼は生き、結果的に、自分でも知らないうちに世界中で多くの実を結んでいたのです。わたしたちも一時は冬のような時期を通ったとしても、必ず復活して多くの豊かな実を結ぶことを信じましょう。これこそが本当に「栄光ある人生」なのです。

(永田 令 牧師)