来て、そして、見なさい

「来て、そして、見なさい」 2021/1/17 主日礼拝メッセージ

ヨハネ1:43-51

阪神淡路大震災から今日で26年です。震災の時によく歌われた聖歌397番の歌詞に「揺れ動く地に立ちて 尚、十字架は輝けり」とあるように、たとえ不安や恐怖に揺れる時でも、わたしたちを救うためにイエス様が十字架で死なれ、よみがえられた、という事実は変わりません。それはコロナ禍の今も同じです。きょうも御言葉によってイエス様の十字架の輝きに目を向けて参りましょう。

地上で公に宣教活動を始められたイエス様が一番最初にされたこと、それは「弟子を集める」ことでした。宣教のために人手が必要だったというのもありますが、「イエス様ご自身が友を必要とした」というのが最大の理由です。今わたしたちが祈る時も、それはただ自分のためではなく、イエス様ご自身もわたしたちとの交わりを喜んでくださっているということを忘れないようにしましょう。
今日の箇所に、「ピリポがナタナエルをイエス様のもとへ連れて行った」という場面があります。イエス様が直接弟子を誘ったケースよりも、「弟子になった人が家族や友人をイエス様に導いた」ケースが、ヨハネの福音書では強調されています。これは現代の人が教会に来るプロセスと同じです。ほとんどのクリスチャンが、最初は家族や友人に誘われて教会に行ったのではないでしょうか?
ピリポは「来て、そして、見なさい」(46節)と言ってナタナエルを誘いました。

今の時代にイエス様を「見る」方法は2つあります。1つは聖書を読むことです。「イエス様はわたしを罪から救うために十字架で命の代価を支払ってくださった」、ということを、聖書全体がわたしたちに示しています。もう1つはクリスチャンの生き方そのものが周りの人々にイエス様の姿を垣間見せます。「イエス様は命をかけてわたしを愛してくださった。だからわたしも神様と人々に仕えていこう」・・そのように生きる時、周りの人々はイエス様と出会い、世界中にイエス様の弟子が増えていくのです。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい」(Ⅰコリント6:20)。

(永田 令 牧師)