荒野で叫ぶ者の声

「荒野で叫ぶ者の声」 2020/12/6

マルコ1:1-8

先週のアドベント第一主日から教会暦は新しい年度に入り、礼拝でおもに読まれる聖書日課も「マタイの福音書」から「マルコの福音書」に変わりました。マルコの特徴は「短い」ということです。マルコの冒頭、1章1節の言葉も「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」と、じつに単刀直入です。この「はじめ」という言葉には、「最初」という意味と共に「基本」、「原点」という意味があります。そして「福音」の意味は「喜びの知らせ」です。”神の子イエスキリストによる喜びの知らせを真にもたらす原点”・・。それはいったい何でしょうか?
冒頭の言葉に続いてマルコが書いたのは、バプテスマのヨハネの働きについてでした。バプテスマのヨハネは、イエス様が登場する少し前に荒野に現れ、「悔い改めよ」と説いた人です。紀元前700年頃、預言者イザヤが「荒野で叫ぶ者の声がする。」(イザヤ書40:3)と預言した人物です。

イスラエルの荒野は、1年の半分くらいが「乾季」で、まったく雨が降りません。日中は40度を超える熱風が吹き、草や花を枯らします。イザヤの時代の人々の心の状態もそんな荒野のようでした。神を忘れ、偶像を拝み、人の命が軽んじられていました。しかしそのような「心の荒野」が、現代にもあるのではないでしょうか?特にこのたびのコロナ禍で、もともと人間が持っていた冷たさや残酷さが表面に出てきたように思います。今こそわたしたちは、自分の心にも「荒野」があることを認め、神様の前に悔い改める必要があります。

荒野のように荒れた心、馬小屋のように汚れた心に、イエス様はおいでくださいました。そしてその荒れた、汚れた心を清めるために、わたしたちの代わりに十字架にかかって死んでくださいました。誰でも自分の心の荒野にイエス様を救い主として迎え入れる時、心のとげとげはなめらかになり、山と丘は削られて平らになり、心に静かな喜びが満ち溢れます。バプテスマのヨハネが説いた「悔い改め」こそ「福音のはじめ(原点)」である、とマルコが言いたかった所以です。

そしてこのような福音の喜びに満たされた人は、今度はその人自身が「荒れ野で叫ぶ者の声」になります。今も周囲に広がる荒野。そこに喜びの知らせを告げる声が響きます。それはまさしくあなたの声なのです。

(永田 令 牧師)