教会のモットー

「教会のモットー」 2020/9/6 主日礼拝メッセージ

マタイ18:15-20

コロナ禍によるイライラのせいか、最近ネットでの誹謗中傷等が問題となっています。これらの要因は「相手の事を自分の身になって考えられない」人が増えているからだと思います。聖書は「あなたの隣人(他人)をあなた自身のように愛せよ」(ローマ13:9)と教えています。人を傷つけたり苦しめるのでなく、むしろその人の必要にこたえ、助けることを神様は望んでおられるのです。

しかし教会員同士であっても、相手が傷つくことを言ったり、したりしてしまうことがあります。きょうの福音書は「(教会の)兄弟があなたに罪を犯したら、まず二人だけのところで説得しなさい。それでも聞かない場合は、他に一人か二人を連れて行きなさい。それでも聞かない場合は教会に告げなさい。」と具体的に勧めています。これには大きなエネルギーを要します。しかしそれが本当に神様の御言葉に沿った忠告ならすべきである、と聖書は語ります。「隣人を自分自身のように愛する」というのはそれくらい難しいことなのです。

さきほどの説得論議の最後に「教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」(マタイ18:17)と書かれています。異邦人や取税人というのは当時もっとも汚れた罪びとされていた人たちです。教会の忠告を拒み続ける人が罪びととみなされるなら、わたしたちもそうです。

「隣人を愛しなさい」と何度も語っておられる神様の忠告を、頑なに拒み続けているからです。でもイエス様は、そんなわたしたちの罪を背負って、身代わりに十字架で死んでくださり、よみがえられました。このイエス様を仰ぎ見、イエス様の十字架を教会の中心に置く時、奇跡が起こります。傷つけたり傷つけられたりした二人三人が、一つになって祈ることが出来るのです。その二人、三人の真ん中にイエス様もおられ、どんな祈りもかなえてくださるからです。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」(マタイ18:20)。流行りのドラマのように「やられたらやり返す」のではなく、一人一人が悔い改めて、イエス様の御名によって共に祈ること。それをわたしたちのモットーにして参りましょう。

(永田令 牧師)