新しい日常

「新しい日常」 2020/6/14

マタイ9:35-10:8

ついに礼拝が再開されたことを感謝します。今回のコロナ禍を受けて、政府が「新しい日常」という言葉を掲げました。実際に新しいシステムや道具が使われ始めています。しかしどんなに方法が新しくなっても、教会がなすべき働きは変わりません。それは「すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす」(マタイ9:35)、すなわち「教える」「福音を宣べ伝える」「いやす」という働きです。これらの働きが、イエス様から12弟子へ、そして現代の教会へと託されました。

しかしこれらをする時、「元気な私が、弱いあなたを助けてあげましょう」というような態度だったら、相手の人には届きません。イエス様が群衆を見て(はらわたが反応するほどに)「かわいそうに思われた」ように、わたしたちも心底相手の立場に立った手助けや、言葉がけをすべきです。

しかしわたしたち人間は、同情心や哀れみの根底にさえ自己満足を含んでいるような者です。イエス様はそんなわたしたちのために、ご自分の命を捨てて十字架にかかってくださり、愛のないわたしたちに救いと教えといやしを与えてくださいました。この救いと教えといやしを、御言葉と祈りによっていただき続ける時、わたしたちもまた、人に福音を伝える者、本当の生き方を教える者、疲れた魂にいやしを与える者へと変えられていくのです。

マタイは自分の福音書の中で、自分のことを「取税人マタイ」と書きました。弟子となった後も「自分は取税人の頃のままの、罪深い者である」、という自覚があったからです。でもだからこそイエス様の十字架の福音と教えといやしを日々喜びながら生き、その結果、大きな働きが出来たのです。 わたしたちも、救われた今もなお自分の罪を自覚し、その罪のゆるしを日々新しくいただいて参りましょう。そしていま出来る方法で、神の国の福音と、教えと、いやしを、人々に届けて参りましょう。それがキリスト者にとっての「新しい日常」です。

(永田 令牧師)