「愛の痛み」 2020/3/8
ローマ4:1-5
ヨハネ3:1-17
今日の福音書に出てくるヨハネ3章16節「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」は、マルチンルターが「小聖書」と呼んだくらい、聖書の本質を一言で言い表した言葉です。
神様は「世」、すなわち、わたしたち人間を愛してくださいました。本当の愛は「痛み」を伴います。神様もわたしたちを愛するあまり、ご自身の一人子イエス様を十字架につけるという痛みを経験されました。
ある夜、ニコデモと言うパリサイ人がイエス様を尋ねてきました。「夜」はニコデモの心を表しています。地位も名誉も財産もあった彼ですが、心はむなしかったのです。他のパリサイ人たちが言っているように「良い行いによって神の国に入れる」という実感がなかったからです。
そんなニコデモに、イエス様は開口一番「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われました。それはもう一度母親のお腹から生まれるという意味ではなく、「水と御霊によって生まれる」こと、すなわちイエス様を信じて洗礼を受けるということです。人は、どんなに地位や名誉があっても、どんなに良い行いを積んでも、罪があるために神の国には入れません。ただイエス様を信じて洗礼を受けるなら、その人は罪人として一度死に、聖霊によって新しく生まれ変わるのです。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」(ローマ4:3)と書かれてある通りです。 わたしたちにそのような大きな祝福を与えるために、神様は一人子イエス様を十字架につけてくださいました。ちょうど昔、モーセが荒野で青銅の蛇を高く掲げ、民がそれを見上げた時、なぜか蛇の毒が消えたように、イエス様を「自分の代わりに十字架で死んでくださった救い主」と信じて見上げる時、なぜかその人の罪の毒が消えるのです。神に反抗してきたわたしたちのために我が子を犠牲にした神の愛。この「痛むほどの愛」に感謝して、今自分に与えられている務めを精いっぱい果たして参りましょう。
(永田 令牧師)