隠された輝き

「隠された輝き」 2020/2/23

マタイ17:1-9

信仰生活は陽だまりのような日々だけではなく、寒い冬のように心が凍りついてしまいそうなこともたくさんあります。しかし、冬の間も土の中では草木が育っていて、時が来れば一斉に芽を出すように、一見何も状況が変わっていないように思えても、目に見えないところでちゃんと神様の計画が進んでいます。そしてそれは、わざわいではなく平安を与える計画であり、わたしたちに将来と希望を与えるための計画です。

きょうは四旬節(受難節)に入る直前の日曜日であり、イエス様の姿が真っ白に輝いたことを覚える「変容主日」です。この栄光の姿を隠したまま、イエス様は人々にあざけられながら十字架で死なれ、墓に葬られました。弟子たちも「これで何もかも終わった」と思いました。

しかし、ちょうど冷たい雪の下から芽が出てくるように、イエス様は死からよみがえられました。今日のイエス様の輝きは、復活のイエス様の姿を一瞬弟子たちに垣間見せた出来事だったのです。

わたしたちの日常生活にも、「もうこれで終わりだ」と思うことがあります。イエス様への不満も出てきます。しかし、そのような厳しい状況であっても、その陰には復活の輝きが隠されており、時が来れば必ず答えを見せてくれます。

わたしたちにそのことを思い起こさせ、「どうやら大丈夫」と気づかせてくれるもの、それが「礼拝」です。別に礼拝堂がまぶしい光で輝くわけではありませんが、わたしたちが共に主を賛美し、御言葉を聞き、聖餐にあずかることを通して、わたしたちは、よみがえりのイエス様と新たに出会っているのです。 洗礼を受けた人は、イエス様と共に死に、イエス様と共に復活しました。だから、たとえ様々な問題や痛みを抱えていても、その陰で復活の輝きを放っています。そしていつかベールが取り除かれて、悲しみは必ず喜びに変わります。主の十字架と復活によってそう断言出来ます。だから、これからも出来る限り礼拝に出席し、イエス様の復活の命に満たされましょう。その時、わたしたちの内側に隠された輝きが放たれ、周りの人々に驚きを与えることでしょう。

(永田 令牧師)