山の上にある町

「山の上にある町」 2020/2/9

Ⅰコリント2:1-12
マタイ5:13-20

今日の福音書にある「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません」(マタイ5:14)という聖句は、今年の西日本教会の標語として提案する聖句です。言葉だけではなく行動によって人々に良い行いをし、それによって人々にイエス様の光を示そうということです。

「がんばって地の塩になれ」ではなく、「あなたがたは既に地の塩であり、世界の光です」とイエス様は言われました。「塩味が利いた人」というと、頭がよくて、語るべき言葉を的確に語る人・・というイメージがあります。また「世界の光」というと、いつも明るくて、暗い人や落ち込んでいる人に勇気を与えたり、希望を与えたりする人だと感じます。しかし自分自身の姿を見る時、どう見ても地の塩とか世界の光からは程遠い、と感じるのではないでしょうか?

今日の使徒書、Ⅰコリント2:3でパウロは「私は、弱く、恐れおののいていました。」と書いています。パウロこそ、いかにも「地の塩、世界の光」と呼ぶにふさわしい人ですが、やはり弱さや恐れと戦っていたのです。そういう人でも・・いや、そういう人こそ「地の塩」であり、「世界の光」です。「なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです」(Ⅰコリント2:2)。

パウロは自分自身の賢さで人に塩味をつけたり、自分自身の明るさで人を照らしたのではありませんでした。ただ、自分の罪の身代わりに十字架で死んでよみがえられたイエス様だけをいつも仰ぎ見ていました。その結果、パウロ自身ではなくパウロを通して聖霊様ご自身が働いて、地の塩としての役割、また世界の光としての役割をパウロに果たさせてくださったのです。「私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした」(Ⅰコリント2:4)と書かれてある通りです。 わたしたちもパウロのように、いつも十字架のイエス様を仰ぎ見、兄弟姉妹と共に御言葉と聖餐にあずかりながら、一歩一歩正しいことをしていきましょう。その時わたしたちは人々から、「ああ、わたしもあんな風になりたい」と言っていただけることでしょう。山の上にある町のように。

(永田 令牧師)