出来事は語る

出来事は語る」 2019/12/15

イザヤ11:1-12
マタイ3:1-12

人々に堂々と悔い改めを迫ったバプテスマのヨハネでも、イエス様に対して疑いを持ったことがありました。

「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか」(マタイ11:3)。

「神の教えを忠実に守ってきたのに、どうしてこんなひどい目に会うんだろう」と思うことがわたしたちにもあります。イエス様を疑ったり、不平を感じたりすることもあります。でもイエス様はそんなわたしたちをお責めになりません。ただわたしたちの目を、聖書の御言葉へと向けさせます。聖書に記されたイエス様のいやしの出来事、十字架と復活の出来事に注目させます。
わたしたちは、自分の感情に左右される者です。「今すごくうれしい気持ちだからわたしは救われている」とか「今すごく落ち込んでいるからわたしは救われていない」とか思いがちです。でも感情は二の次です。イエス様がわたしたちの身代わりに十字架で死なれ、よみがえられたという事実は決して変わりません。まずそこに注目しましょう。すると、「この事実のおかげでわたしは既に救われている」という信仰が戻ってきて、そのあと「喜び」という感情が続きます。「事実」→「信仰」→「感情」。この順番を忘れないようにしましょう。

「そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ」(イザヤ35:6)。

アフガニスタンで銃撃された中村哲さんが、砂漠から20キロ以上離れた川から用水路を引いて、砂漠を緑の大地にする計画を発表した時、誰もが「不可能だ」と思いました。しかし10年後、その計画は実現し、文字通り「荒野に水がわき出し」、農作物が生い茂り、60万人の人々が飢えから救われました。
わたしたちも「不可能だ」と思ったり、神様に対して疑いが生じる時があります。そんな時は、聖書に記されたイエス様の十字架の出来事に注目しましょう。その出来事が「大丈夫」と語っています。そのことを信じる時、荒野に水が湧くように、わたしたちの心に再び喜びが湧いてくることでしょう。

(永田 令牧師)